映画「あの日のオルガン」 -1904
戦争中の「学童疎開」の事実は、よく知っていますが、保育所・隣保館の集団疎開があったとは‥知りませんでした。
戦争末期の1944年、東京のある保育所の保母たちは疑問に感じます。「学童が疎開しているのに、ここの園児たちには、そのような配慮がない、このままでいいのだろうか。」
そこで園児疎開を親たちに提案します。
学童ですら疎開出発の時泣き叫ぶ・・のに、おさな子が親と離れて暮らせるわけがない。
そんな意見が多い中、空襲が身近なものになってくるにつれて、賛成が増えていきます。
やっとみつけた疎開先は埼玉(桶川駅の文字が何度かでてきました)、駅から5キロの道を、53人の園児たちは歩いて到着します。
そこは廃寺で、隙間だらけの板戸があるだけの家屋、困難な生活が予想されます。
食べ物は地元農家からの提供があるといっても、大根しかないことも。タマの風呂は、近所の「もらい湯」、厳しい生活です。
当初から迷惑そうな地元の雰囲気の中で、奮闘する保母たちと、天真爛漫な子供たちを描いた映画です。
やがて敗戦となり、疎開生活はそんなに長い期間ではなかったようですが延々と、こんな生活が続いたら「この生活」は破綻していたことでしょう。
実話に基づいた映画だそうです。
保育園の疎開があったなんて、全く知りませんでしたから興味がありました。
ただ「映画・この世界の片隅に」のような、周到な事前取材と、きめ細かい描き方が、もう少しあれば更によかった、と思いました。
学童疎開は首都圏ながら、私が今住んでいる地区でも受け入れたことがあるそうです。近くの山の上には「B29監視塔」なる建物も残っています。
戦時中のできごとについては、本やドキュメンタリーなどで、いろいろと知っているつもりですが、まだまだ知らないことがあるようです。
この記事へのコメント
就学前でしたが、空襲や疎開の記憶は鮮明に残っています。芝白金志田町の借家に母方の祖父母と住んでいました。父親は応召して満州へ。引き揚げてくるまで父親の顔は覚えていませんでした。白金の保育園に入り、母親は授産所で働いていました。空襲が激しくなり、叔父を頼って米子に疎開したのです。終戦の翌年、父親が抑留されていたソ連から突如戻ってきたので、東京に戻りましたが、祖父母は滝野川に引っ越していたので、芝に戻ることはありませんでした
それにしても疎開で米子まで行かれたとか、少し考えただけでも、卒倒しそうです。
駅頭に叔父、叔母が迎えに来ていて、なんと人力車で加茂神社の近くの家に向かいました。当時はタクシーなんぞなかったからでしょう。
後にも先にも人力車に乗ったのはこの時だけです。
中学校の修学旅行の時の帰りも、そうでした。
米子に着いての弁当が美味しかった・・記憶があります。