母校の小学校 -1965

母校の小学校は町内の小学校が随分前に、一つに統合されて、今はありません。

昔のことになりましたが、故郷の、日本最大の産出量を誇った「クローム鉱山」が閉鎖されて以降、人口減少が続きました。
私が住んでいた頃は、旅館が三つもありましたし、月に何回か上映する映画館もありました。宝塚(?)のようなレビューがきたこともありましたよ。

子供も沢山いました。
この保育園のシーソーでは、帰省時、私の子供も遊んだことがあります。
向こうが小学校の古い校舎のようです。
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嬉し恥ずかし、生まれて初めて女の子の手を握りました。握ったというより「タッチ」でした・・けどね。
中学校の全校生徒でしょう。入場の時、先頭をつとめましたが、手をつないだのは誰だったでしょうね。

小1から中3まで、ずっと小・中の合同運動会でした。手前の中学校の校舎二階からの写真でしょう、父が写したのかな・・。

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この平屋校舎の右には二階建ての校舎があり、新校舎と呼んでいました、小3以降はそこで学びました。

後にこの平屋校舎も立て替えられました、実に堂々たる建物になりましたが、人口減は予想してなかったようですね、今の日本の「ありよう」と重なってきます。
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そして急激な児童数の減少、こんな瀟洒な校舎↓が建設されていました。全て町内産の木材を使用したそうで、窓の外から見ただけですが、ゆったりとした快適な学校のようでした。
今から考えると、鳥取県は「教育」を大事にする県だったと思います。
S17.JPG
現在は資料館か何かで使われているようです。
統合された小学校は中心部の町役場近くにあり、児童は毎日スクールバスで通学しているようです。
それよりもずっと以前に、中学校は7つもの中学校が統合されました、冬季は寄宿舎も設置されていたようです。

いろいろ思い出しますと、懐かしさの一方で、何か寂しい気持ちにもなります。

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この記事へのコメント

2019年10月01日 13:43
フォークダンス 懐かしいです!
今の中学生は こんな事で ドキドキなんて
しないでしょうね。
私は卒業以来 小学校も中学校も 訪れたことが
ないです。もう 昔の面影なんかないでしょうね。
人生ゆっくり
2019年10月01日 16:05
今の私もドキドキはしませんが・・、そもそも男子と女子が一緒に遊ぶことなんかは皆無でしたからね。
と言いつつも、青リンゴのような思い出も一つだけあります、でもヒ・ミ・ツです。
loafer
2019年10月02日 17:22
私は小学校(まだ国民学校と言っていました)に入学したのは、終戦の翌年で、米子でした。
木造校舎でしたが、余りに中心部にあったためでしょうか、先年行ったときは移転していて、あとは駐車場になっていました。

今はネットやテレビも普及していて、都会に住んでいなくてもバーチャル体験はいくらでもできるのに、地方がどんどん過疎化しているのはどうしてなんでしょうか。
都会の方が仕事があり、収入も多いのですが、住居は狭いし、生活費も高い。
通勤は痛勤ですけど、都会には人をひきつけるの魔力があるのでしょうか。
人生ゆっくり
2019年10月03日 09:10
地方といっても色々です。実家のある田舎には、私も帰りたくないですが、米子などは住みやすいところだと思います。
実家に写真集があり持ってきました。米子のいくつかの小学校の写真ものっています。疎開の時の小学校名(現在の)は、どこでしたでしょうか。
loafer
2019年10月03日 11:11
米子の小学校は、就将小学校と言いました。米子駅から真っすぐ向かい、徒歩7,8分でしょう。
人生ゆっくり
2019年10月03日 16:58
就将校でしたか、私の持っている本には福生校と義方校の古い写真が載っています。
私たちの小さい頃の写真は、時代が時代ですから、あまりないですね。