四種の神器 -2178

かって、日本の「家電製品」は世界の中での雄でした、時代ごとに「三種とか五種の神器」というものがありましたね。
写真は「四種の神器」なのでしょうか。いずれも生活革命をもたらてくれました。
私の中学校くらいの時の電気製品だったと思います。それぞれの出現は、少しずつ時期がズレているように思いますけど・・、思い出すままに。
電気洗濯機
子供の頃の母親はタライで洗濯し、「すすぎ」は家の前の道路の横に流れていた小さな水路でやっていたと思います。その頃は、まだ水道がありませんでした。
いま思うと家族が多かったので、大変だったと思います。「あかぎれ」だらけだった母の手を思い出すと、涙が出そうです。
この電気洗濯機が納入された時のことは今もよく覚えています。写真のように手で回す脱水器がついていました。私が最初に見たのも、このタイプでしたね、繊維を痛めるなどということなどは問題外でした。
これで脱水しても水分は残ります。実家は冬季寒かったので、干しても翌朝にはカチカチに凍っていました。
電気炊飯器
母親は家族が目覚める前に「かまど」に火をつけていました。炊飯はその上に置く「釜」で焚いていました。火をつけた後、釜の様子をみて薪の投入を判断していたのでしょうね。
私はご飯がマズイと思った記憶は一度もありません、母親が上手に焚き上げてくれていたのでしょう。
電気掃除機
これが入ってきたのは、ずっと後の時期だったと思います、掃除用具としては、「ほうき」しか印象に残っていません。
私は初給料時。新宿の小田急デパートから香蘭社の茶器セットを田舎に送ったのですが、後に実家では大事に使われていたのを知りました。
勤務していた会社は、当時、家電も製造していましたので、後に掃除機をプレゼントしたこともあります。
電気冷蔵庫
これの出現もズット後のことだったと思います。
その昔、実家の三軒隣が魚屋さんでした。
ある時、そこに冷蔵庫が入るという話を聞いて、「何にも関心がある」子供でしたので駆け付けました。木製の整理ダンスのような形状でした。上部に氷を置いて冷やし、下部に魚を入れる方式の冷蔵庫でした。部分部分にキチンと密閉する仕組みがあり、よく出来ていると思いました。
山間地でタマに魚の行商も来ていましたが、「刺身」を食べた記憶は全くありません。
今では、車で行く必要はありますが、スーパーができて刺身も売っています、弁当も売っていたりして、隔世の感があります。
それぞれ「電気の恩恵」を実感した、電気製品だったと思います。
これ以降の電気製品だと、私にとってのメモリアルな電気製品は、ステレオ/カラーテレビ/トースター/鉄板プレート/電子レンジといったところでしょうか。
エアコンは当然、田舎にはありませんでした。でも就寝時、雨戸をあけて(泥棒などいません)、蚊帳を吊って寝れば快適に眠れました。
網戸があったら更に快適だったでしょうけど・・。昼間のハエやアブなども大変でしたね・・。
いろいろ思い出すと楽しいです。
この記事へのコメント
思いだされてきました。
母としては 洗濯機が 一番嬉しかったと思います。
もう 池迄 洗いに行かなくてもいいのですから、、。
そう思うと 今は とっても 便利で 楽になっているのですが
それでも 疲れた~、、、と 私は うなっています。
これは 夫が 手伝ってくれたら 解消する問題ですが、、。
人生ゆっくりさん 家事手伝い なさっていますか?
前夜の洗濯ものを、二階のベランダに干すことと、それの取り込みだけでしょうか。
熊本で単身赴任生活3年を過ごしましたが、家事という面では全く進歩しませんでした。
老齢夫婦、人生を重ねつつも、やはり「気を使う」必要はあるなと思っています。
子どもの頃は、電気冷蔵庫やエアコンは家にありませんでした。
電気洗濯機の方が先でした。
テレビは64年東京オリンピックの頃、カラー放送が始まりましたが、当時の価格で35万円。会社の役員が月賦で購入していました。
今の子供は生まれたときからカラーテレビ。小学生のころからスマホを手にしたりと、すっかり変わりました。
家人の体調不良で、私は買い物、三度の食事の準備など、主夫をやっています。50年世話になったので、私が元気なうちは頑張ろうと思っています。
他のブログへ移行可能だそうですが、少々手間がかかりそうです。
N社の手を離れての運営でしたが、サービスの気持ちがないと継続は難しいのでしょう。
主夫業、大変ですね、夕食のデリバリーサービスなど、便利なものもあるようですので、くれぐれもムリはなされないようにお願いします。